島のパワースポット

能登島は、1982年に能登島大橋ができるまで離島でした。漁業の他に農業も盛んで、永く自給自足を続けてきました。島という要因で戦国時代の混乱や火災が少なかったことから、寺社仏閣に古い仏像などが残っていると考えられます。

須曽蝦夷穴古墳

須曽(すそ)地域の七尾湾を見下ろす要所の高台にあり、朝鮮半島の古墳の作り方の流れをくむ、全国的にも珍しい古墳です。変わっている点は、1つの古墳に2つの横穴の石室がある事です。1つが雄穴、もう1つが雌穴と呼ばれ、石板を積み上げアーチ状の石室となっていることも特徴で、内部を見学することができます。出土した須恵器(蓋坏)や直刀片などから、7世紀中葉前後の築造とみられ国指定史跡となっています。

この古墳が作られた頃の人々は、漁と塩づくりを生業としながら七尾湾を活発に往来していました。七尾には、北方へ向かう海上交通の要でもあった港があり、湾岸の人々は、水軍として北の海へ向かっていたものと思われます。

この古墳もおそらく、高句麗出身の有力者が葬られた墓ではないかとの説もあり、古代朝鮮と能登との交流が想像できます。この高台から海を眺め、古代の歴史に思いを馳せるのもロマンティックですね。

伊夜比咩神社国

この伊夜比咩神社(いやひめじんじゃ)は、能登島の中心部の向田(こうだ)にありますが、通りから入ったところにあり、見落として通り過ぎてしまうかもしれません。

伊夜という意味には、素晴らしいという意味があるので、素晴らしい女性の神社という名前になります。古くは、近くのイヤミという地より現在の地へ遷り、八幡神社と合祀。その後も神明神社、白山神社と合祀され現在の伊夜比咩神社となりました。向田の人達の信仰や心のよりどころとなっています。

この伊夜比咩神社は、延喜式神名帳(927年)に記載されている由緒ある神社です。嘉元四年(1306)の棟札や義経追討状が保存されていて、これほど古いものが伝わっているのは全国的にみても貴重な存在です。

そして向田で行われるの納涼祭「向田の火祭」(石川県指定無形民俗文化財)も有名です。

日本三大火祭りの1つと言われ、毎年7月の最終土曜日に行われる古来「オスズミ祭り」と呼ばれている夏祭りです。伊夜比咩神社から神輿やキリコを担ぎ出し、広場に設置された巨大な柱松明(たいまつ)の周りを7回練り歩きます。その後、島民や見物者がそれぞれ手に持った柱松明を振りながら周回します。そして、熱気が最高潮に達したところ、号令で大柱松明に点火。大柱松明が空高く火柱となって天に昇り、倒れた方向によって豊漁、豊作を占います。

伊夜比咩神社の女の神様と越後の男の神様が、この松明を目印に年に1度、このお祭りで出会われるという、ロマンチックな一説もあります。

高さ30mの大松明

祖母の墓

ここは、飛び鉢の技を持つ行者の母(祖母の説もあります)が祀られている「祖母の墓」。「祖母ヶ浦(ばがうら)」という地名にもなっています。南北朝時代、修行の女性行者がお供を連れ島にやってきました。

そしてこの地域に定住し、農業や漁業の知識をもたらしました。さらに点在した家を集め集落とし地域の発展に寄与し「オンバサマ」と呼ばれ敬われました。

その女性の子も行者となって修行を積みました。奈良時代の高僧泰澄和尚の弟子のこの行者は、臥行者(ふせりのぎょうじゃ)とも言われ、寒風にさらされ、雪の中、仰向けに臥し修行を重ねたということです。そして沖を航行する官船に向かって供米を願う際、使ったのが「飛鉢(ひはつ)」の技。念ずると鉢が船へ向かって飛んで行き、供米を携えて戻ってくるという不思議なお話が伝わっています。

この祖母の像「木像女神像」が祀られているのが、近くの専正寺です。このお寺には、室町時代の木像薬師如来像や同時期の銅造大日如来懸仏なども祀られています。

  • 銅造大日如来懸仏
  • 本堂内部
木像女神像

 

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