じいばあの昔語り

島の昔の暮らし

鰀目町のじい、ばあから聞いたお話です。

1982年に能登島大橋が出来るまでは、フェリーが就航していて、夏場は、30分ごとに運行していました。そのフェリーもない頃は、漁船で対岸と行き来していました。そして、じいばあの子供の頃、店といえば雑貨屋さんがあるくらいでした。

この頃は、魚も今よりさらに豊富で、冬にはタラがたくさん捕れ、島の歌にもタラは、日本一と歌われているほど。島には、平地も多く農業も盛んでした。ほとんどの人々は、半農半漁で暮らし、9割の男は漁師でした。自給自足でしたが、あまり食べるものにも困らなかった様で、家々には子供が沢山生まれ、7、8人は、普通。12人の子供がいた家もあったとのことです。母親たちは、現金収入のため、加賀へ稲刈りや和歌山へみかんの収穫に出稼ぎに行っていました。

<鰀目に伝わる歌>

♪えのめの名所は、勝尾崎。
 並んで机島、嶽(だけ)神社。
 嶽みや神社は、おごそかで、マグロにカツオにタラにさば。
 冬はタラ網、あみ仕事。
 タラのとれるは日本一。

近所とのつながりが濃く、もらい風呂が楽しかったときいています。サツマイモを茹で、みんなで食べてごちそうになることもありました。醤油は魚醤を作り、味噌も各家々で作っていました。ほとんどの家でニワトリを放し飼いにしていて、あちらこちらで卵を産むので、それを集めるのが、子供たちの役割。また、水道がないので、近くの山の溜池へ汲みに行くのも子供たち。遊びに夢中で水を汲まなかった時には、「ごはん、あたらんぞ。」とよく叱られました。春になると畑仕事の手伝いが始まり、日々山へ薪拾いにも行きました。冬場は、ワラ仕事。俵や縄を編んで手伝いをしました。そして子守も子供の仕事。「もう少し産まんといて。」と思いました。

よく遊び、いたずらもたくさんした

子供の頃、小学校は、4校もありました。

男も女も海で泳いだり、サザエを採ったりと、海で遊ぶことが多かったそうです。竹馬で海を渡る遊びや、杉てっぽうを作って遊んだり、薪を拾うついでにコマを作ったり、竹とんぼもよく作りました。

山のぐみ、桑の実(かいこのエサになる葉)など木の実がおやつになりました。桑の実は熟すと本当にうまいとのこと。さがりぐみやびわ、しいの実、あけびに似たうんべなど山にいっぱいありました。

今だから話すけれど、内緒でマッタケもいっぱい採ったり、吊し柿も採ったりなどいたずらはたくさんしました。暗くなるまで、学校でバケツを持って立たされ、学校の先生が親より怖かったそうです。暗くなるまで立たされ、先生が忘れて帰ったこともありました。

近所の庭の果実を採ってもあまり怒られない、おおらかな時代。島には、子供が溢れていた時代。インタビューの帰り道、路地のそこかしこから元気よく走りまわる子供たちの声が聞こえてくるような気がしました。

<島に伝わる民話>
◯エイの目「鰀目町」
その昔、烏帽子岩の沖に大きなエイが棲んでいて、舟をひっくり返したり、いたずらをして島の人々を困らせていました。
そこで人々は神様にお願いし、このエイを退治してもらうことにしました。神様が、弓矢でエイの目を射った時、神様がかぶっていた烏帽子が海に飛んでしまいました。
こうしてできたのが、烏帽子岩です。
このエイの目、というところから、鰀目(えのめ)の地名になったとさ。
<他の民話を読む>
○ヤクシタン(薬師谷) 「野崎町」 >>
○寺島 「佐波町」 >>
○白もんもと巡査の話 「半浦町」 >>

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